風が冷たく感じるようになってきた。暖房を使うことが増えてくるせいか、オフィス斜め向かいの消防署から、赤色灯の光とサイレンの音が、窓の下を通過していくことが多くなった気がする。
青山墓地から程近い場所にある、ぼんやりと歩いていては見過ごしてしまいそうなビルの一室から、少し身体を傾けると、六本木ヒルズが見える。周囲の街並みに馴染むこともなく、不時着して突き刺さった宇宙船のような1本の筒。そこに向かって歩く幾筋の列、生み出される巨大な渦。そんな気分になるような、ならないような。
さて、世の中には、本当に必要なものがどれだけあるのだろうか。よく生きていく上で最低限必要とされるものに衣食住が挙げられる。これらがないことには、一生苦渋をのまされるのではないかと、一見不必要とさえ思われるものにも必要性を見出しているのではないか。とくに食においては、ポリフェノールやコエンザイム、βカロテン、オーガニックや、添加物など真偽不明であるにもかかわらず、審議不要とばかりに、我々を幻惑し、困惑させ、時にはワクワクもさせてしまう。そんな曖昧模糊としているものがたくさんある。
とはいえ、なにも必要最低限のものがあればそれでいいと思っているわけではないし、そういう生活をしているわけでもない。むしろ飲む必要のない酒を浴びるように飲み、吸う必要のないタバコを目が眩むほど吸い、世の中の風潮に迎合し、毎朝コーヒーを買うことを慣習化している。そう考えれば、必要のないもので溢れている。
以前、家に帰ると4歳になる娘が電話で「うちのパパはニンジンが食べられないんだよ」と言っているのを聞いたことがある。誰と話しているのだろうか。わざわざ電話で言うことだろうか。網膜剥離になり、眼を手術した時も、母親に「あんたはニンジンを食べないから眼が悪くなった」と言われた。関係ねーだろ。さらに嫁となれば、ハンバーグに、カレーに、ドレッシングに、こっそりとニンジンを擦って入れている。恐ろしい執念だ。気付いてないとでも思っているのだろうか。トーテムポールのように食卓に積み上がる缶ビールが象徴するものは何なのだろうか。
ところで、青山には仕事終わりにビールを飲めるお店がごまんとある。私はなかでも2つの店を贔屓にしている。1つは焼き鳥屋「とりまる」だ。やんちゃな雰囲気の店長とやんちゃな雰囲気のお客さんで賑わっている。そしてもう1つがもつ焼き屋「青山」。懐深い雰囲気の店長が注文しなくても色々適当に持ってきてくれるのだ。どちらも、我々のコミュニケーションをとりもつ、愛すべき店なのである。もちろん、ニンジンは出ない。
よくご褒美的な意味合いで、ニンジンをぶら下げると言ったものだが、ニンジンがぶら下がっているからといって、なんだというのか。ただただ邪魔でしかないのだ。必要のないものに、惑わされてはいけない。本当に必要なものとは、お互いを尊重しつつ、話し合うことである。ビール片手に向かい合い、微笑み合い、時には掴み合い、罵り合う。そんな喜怒哀楽に富んだ時間を過ごせたら、それは最高でたまらない。いくつもある日々の途中、必要なのは意思の疎通。解り合えているかは未知の指数。