自分で選んだ道

西野 大樹

物心がついたころから車が好きだった。幼少期は家にあったカー・ビデオマガジン『Hot Version』などのVHSを擦り切れるほど見て「早く車の免許欲しい!」と常々思っていた。遊ぶゲームは専らグランツーリスモ。敵の車めがけてバナナの皮を投げるより、サーキットごとに車のセッティングを変えて走る方が楽しかった。休日は父親によく富士スピードウェイへ連れて行ってもらい、サーキットが自分にとっての遊園地。轟音に耳を塞ぎつつ、いつかコントローラーではなく本物のステアリングを握ってこの地でレースをしたいと夢見ていた。

そんな幼少期を経て中学生になると、その先の高校や将来を見据えた進路を考えるようになる。「レーサーになりたい」というあの頃の空想は叶わないことに気づき、夢は車の免許を取得する前に諦めた。だが、車に携わる仕事をしたいと思い自動車整備の専門学校に進学。卒業後、自動車整備業界で働くようになる。自分の意志で選んだけれど、人生の進路を絞りすぎている気がした。仕事に慣れてある程度余裕が出てくると、自動車以外の世界にも興味が沸いてきて新たな経験をしたいと思い自動車整備の仕事は辞めることにした。

幼少期に好きだったものは他にもある。小学四年生の時、友達が教えてくれたGreen Dayがきっかけで洋楽が好きになり、兄と唯一共通の趣味である海外サッカーではイングランドの名門アーセナルが好きで、本屋でジャケ買いした高橋歩の本を読んで海外を放浪することに興味を持っていた。そして社会人になってからも引き続き海外の音楽や文化に関心があったが、英語は全く話せなかった。

自動車整備会社を退職後、幼少期から憧れていた海外に行くために、まずは英語を学ぼうとセブ島へ語学留学に行った。留学を始めて一ヶ月が過ぎたころ、コロナによるパンデミックが加速。街はロックダウンになり、学校の先生たちはストライキを起こした。そんな状況で英語の勉強には手がつかず、いつ日本に帰れるのかと気が気でなかった。なんとか臨時便の航空券を手に入れ予定外の帰国。

だけど、日本も大変な状況で、求人もなかなか見つからない。たまたま、ハローワークでWEBデザインの職業訓練のチラシを見て応募。約三ヶ月学んだが、求人は依然厳しい状況で、結局学んだ内容とは異なる仕事をすることになった。

そんなある日、インスタでフォローしていたVEJ山梨の求人の投稿を見て、WEBの仕事ができるかもと思いダメもとで応募してみた。ほんとかどうか分からないが、特技を聞かれたときに、咄嗟に「走っている車の名前全部言えます」と言ったことが採用の決め手とのこと。自分を形成する大きな要素である車がここで存在感を放ち、新たな業種に就くことができた。

幼少期の自分よ、未来の自分はブルーライトカットの眼鏡をかけて、WEBの仕事をしているぞ。あの頃の自分からは想像がつかなくて面白い。かつてフェスでボランティアスタッフを経験したことは、入社して間もなく運営に携わった「ハイライフ八ヶ岳」の現場で多少は役に立ったかもしれない。今までやってきたことや過ごしてきて日々が、意外なかたちで繋がった。

一度通った道より初めて通る道に興味があり、これからも新たな「発見」や「経験」の「点」は増えていくと思う。それが「線」になるかどうかなんて誰も分からない。ただ、今やりたいと思ったことに正直に、自分の直感を信じて取り組んでいきたい。

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Q. 一番好きな車種は?
難しい質問ですね…シルビアS13(色はライムグリーンツートン)をカスタムせず純正で乗りたいです。一番は決められないですが好きな車はめちゃくちゃあります(笑)

Q. いま海外に行くとしたら、行きたい場所とその理由は?
イギリスです。ロンドンを本拠地としているサッカークラブのアーセナルが昔から大好きで、この質問に回答している時点ではプレミアリーグで首位なんです!日本代表の富安選手も在籍していて、現地で試合を観戦したい!

Q. セブ島留学での印象に残ったエピソードがあれば教えてください。
散髪しようと床屋に入ったのですが、英語で注文する方法や現地の床屋の作法が分からなかったので、坊主の写真を見せて「This」と注文して人生初坊主にしました。

西野 大樹

Front-end engineer


生活を愛せるようになるまで

徐 睿辰

「相変わらず僕は 人混みと揺れて 目の前の1日を こなすように生きてる」 学生時代ずっと聴いていた曲の歌詞が、10月から東京にきて少しずつ実感に変わってきた。新百合ヶ丘から、向ヶ丘遊園までの間。電車で読んでいた本をリュックサックに戻し、結局寝てしまう毎日の朝。

山梨に住んでいた時、電車は全然使わなかったので、電車で座って本の世界に飛び込むことに憧れていた。けど朝は苦手だった。あっ、過去形ではないか。本を数分しか読んでないのに、眠くなっちゃう。活字はあと何年で読めるようになるんだろう。

子供の時からずっと電車が好きで、小学生のとき親からもらった世界の電車図鑑を何遍も読んでいた。その時初めて、日本に新幹線という乗り物があることを知った。

生まれ育った中国ではずっと電車がある生活とは縁がなかった。中国の都市は交通インフラの整備が2010年前後から始まったので、高校卒業まで地元の街に地下鉄はなかった。ずっと自転車を漕いで学校に通っていて、やっと近所に地下鉄の駅ができた頃に、大学進学で他の都市に行くことになったのだ。大学の寮はキャンパスの近くにあって、電車に乗る必要はなし。当時はなぜか古い地下鉄に乗りたくて、月1回くらい上海に遊びに行っていた。

電車の話ばかり書いてしまった(笑)。でも電車と同じくらい、日本のことが好きだ。

小5のとき、『家庭教師ヒットマンREBORN!』というアニメで初めて日本のアニメを知って(それまでドラえもんが台湾のアニメだとずっと思っていた…)、中学生の頃ジャニーズが好きになって、Mステとかの音楽番組を毎週休みの日に見ていた。しかしいつの間にか、出演するアーティストよりもMステのオープニング動画の方が気になるようになっていた。そのオープニングアニメーションはモーションの前後の繋ぎが自然ですっごく滑らかで、赤と青の色合いも印象深く気持ち良かったなー…と。今思えば、モーショングラフィックに興味を持ち始めたのはその時からかもしれない。

それから高校・大学で過ごす中でいろいろな日本の文化に触れることができた。バブル前後の特徴的な建物などにはとても興奮した……!日本文化のいろんな側面にも興味を持ち始め、日本への憧れを膨らませていたのだ。

しかし大学2年になっても、日本に行くことは遠いところにある触れられない夢のまま。うちは一般家庭で、私費で留学することは経済的に不可能だったからだ。そんな折、「交換留学」という私にとっては画期的な金銭節約術があることを初めて知った。そこから学校の国際交流科でボランティアで働いて情報収集を行ったり、先生と単位の交渉をしたり、GPAも頑張って上げるなど、思いつく限りあらゆる手を尽くした。そして、なんとか学校の交換留学プログラムに合格!日本に留学できたことは自分にとっては夢のようで、いつまでも幻のような感じでした。

交換留学生の1年間は、この先一生日本に来る機会がない覚悟で、とにかく多くの地域に旅行へ。しかし、旅をすればするほど、1年間では足りないと思うようになったのだ。

もっと日本にいられるように、そこから大学院入試などいろいろ調べて、試験を受け、入学して卒業して今に至った。人間の欲望が生むエネルギーは本当に恐ろしいものだと、我ながら驚く。

現在、正直言って学生生活から仕事がある毎日への切り替えがまだ完全にできていないところがある。たまに、自分が日本で、VEJで働いて生きていることは現実なのか、それとも夢なのかわからなくなる時もある。

日本に住み始めて3年、自分にとって日本はまだ未知なものが多く、この国で生きながら、VEJで働きながら次の夢をみつけたいと今は思っている。(まずはそれの基礎となる生活を、部屋の整理整頓や環境整備、毎日の生活リズムを整えることからはじめないといけない…)

そして働く日々を大切にして、その生活を愛せるように、頑張って生きていきたいと思います。

どうぞこれからもよろしくお願いします!

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Q. 幼少期の思い出に残っているエピソードを教えてください。

 【暗い系】
 中国の年越しは親戚一同で集まってご飯を食べる風習があります。自分のウチでは毎年おばあちゃんの家に集まり、おばさんが料理を作ってくれました。幼少期そのご飯を食べる時に、必ずおばさんから「私の料理美味しい?」って聞かれていました。僕は「美味しい」と答えます。そうすると今度は「私とあなたのお母さんが作った料理どっちが美味しい?」と聞かれます。子供の頃は洋食のほうが好きだったので、お母さんとおばさん、どちらの料理も正直好きじゃなかったのですが、僕の中の生存本能が働き「おばさんのほうが美味しい」と答えていました。そうするとおばさんは「あなた嘘つくの上手いね」と… それを10年くらい繰り返していました。
 成人しお母さんと当時の事を話すと、そんな質問をされていた原因についてなんとなく推測できるようになった。なんか話がどんどん暗くなっちゃうのでここでやめます…(笑)
 なんというか、そういう経験から子供の頃に作ってしまったキャラから脱皮して、素直に生きていきたいという思いが実家から離れた大学を選んで、いま日本で生きている理由かもしれませんね…

 【一般的】
 中二まではかなりご飯を食べるほうで太っていたんです(今も痩せていないですが…)。小四の時に家族旅行で初めて海沿いのホテルに泊まった時は、朝食のビュッフェが美味しく死ぬほどずっと食べ続けてしまいました。気が付いた時にはすごい吐き気を覚えて、椅子から立ったまま一歩も歩けなくなってしまいました。その満腹感は今でも覚えていて、それから12年経った今でもお父さんからそのエピソードについて笑われています。日本で痩せたいです。。

Q. 生活リズムを整える為の習慣があれば教えてください。
朝ドラをリアルタイムで見るようにしています。
特に録画だと見れない朝ドラ終わり、8:15からの『あさイチ』の冒頭で、当日放送分の「朝ドラ受け」があるので、それを見るために早起きを頑張っています…

Q. いまオススメの本はありますか?
「いのちの食べ方」っていう!!!僕の推しのEve先生がプロデュースした小説です!!よかったら読んでみてくださああああい。単行本を貸しますので!!

徐 睿辰

Assistant director


最強

福原 翔

「好きなことをする努力家はね最強なんですよ」僕の大好きな作品である『ブルーピリオド』で心を揺さぶられたセリフだ。この作品に出会っていなければ、VEJに出会うことはな
かったかもしれない。

高校を卒業して特にやりたいことがなかった僕は、地元から離れたくて神奈川県にある製パン会社に就職。特にやりたいこともなく代わり映えのない日々を送る毎日で、たぶんこのままずっとこの会社で働いていくんだろうなと漠然と思っていた。

そんな僕がWEB制作への道を進むきっかけとなったのが、当時好きだった洋服のオンラインストアやブランドのルックだ。それらをパソコンやスマホで見ていると、どうもデバイスによって表示が違う。

最初はWEBサイトが壊れたのかと思ったが、調べていくうちに意図的に表示を変えているのだと判明。そういった発見を通して、どうやって実装しているのか興味を持ち、自分でもサイトを作ってみると、パズルのように部品を組み合わせて完成させていく過程が非常に面白い。そこから僕は、WEB制作の魅力に取り憑かれた。

また、同時期に出会ったのが、冒頭で紹介した『ブルーピリオド』という作品だ。インテリヤンキーの矢口八虎がたまたま美術室で出会った絵をきっかけに、東京藝術大学油画科入学を目指して努力し苦悩する姿を描くという内容の漫画だ。今まで遊びも勉強も無難にこなしてきた八虎が、初めて真剣に取り組む「美術」。それを突き詰めるための行動力、愚直に努力を重ねる姿に感動し、僕も好きな物に対して目標に向かって進みたいと強く思った。漠然と働くより、自分の興味があることに踏み込んでみよう。思い切って8年勤めた会社を退職し、2021年8月に東京に出て転職活動を始めた。

その後、紆余曲折あり、アルバイトとしてデザイナー・コーダーのアシスタントで制作会社に入社することができた。しかしながら、求められる技術が高く、WEBを少し齧った程度の僕では力不足で全くついていけず、一度腰を据えて勉強するために退職。その後は、人材会社で働きつつWEBの勉強に取り組み、2022年8月に再チャレンジするため転職活動を始めた。その時、偶然VEJの求人を見つけ、「ここで働いてみたい」と応募し、内定をもらい入社することになった。

入社してから数ヶ月が経ち、個性豊かなメンバーや環境に恵まれ日々成長を実感している。コーダーとしては二度目の挑戦。今も不安でいっぱいだが、それを上回るくらい新しいこと尽くしで毎日が楽しい。この先もたくさん苦悩することはあるだろうが、好きなことに全力で取り組んでいる今、僕は「最強」だ。

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Q. 学生時代、部活動は何をしていましたか?
学生時代6年間ソフトテニスをやってました。『テニスの王子様』に憧れてましたが現実はそんなに甘くありませんでした、、(笑)

Q. 好きな洋服のブランドや、好きなスタイルなどがあれば教えてください。
好きなブランドはAURALEE,,THE RERACS,steinです。基本的に暗めな服が好きなので黒い服が多いです。

Q. 最近のマイブームは?
マイブームは最近買ったオブツーサを眺めることです。植物を育てるのはズボラな僕にとって難易度高いかなと思ったんですが、育ててみると愛着が湧いてきました。名前はツーさんです。

福原 翔

Front-end engineer