本気でスタッフ全員が笑顔で働ける会社でありたいと願っている。みんなが最高だと言える環境を実現したい。
2001年に産声をあげたVEJ。その歴史は下北沢のワンルームマンションから始まりました。しばらくすると、その裏手にあった3DKのマンションに引っ越し。それから神泉の一軒家オフィス時代を経て青山へ。気づけば総勢19名のプロダクションに拡大し、2017年9月には南青山3丁目から2丁目へ移転しました。
「こんな大所帯になるとは思いもしなかった。明日は倒産するかもしれないと本気で思っていたから」と代表の池田は振り返りますが、そんな不安をよそに、VEJはまた新たな節目を迎えました。
私たちはVEJと略されることがほとんどですが、正式名称はVISUAL AND ECHO JAPAN。この映像と音楽を連想させる社名は、事業領域であるウェブサイト制作と映像制作とリンクしますが、実はこれ、池田が命名したものではないのです。
「VEJを立ち上げる以前、僕は権四郎ガープという映像制作会社の社員でしたが、社名はそこで出会った元VEJ社員の松永が決めたんですよ。彼は当時ラジオ番組の制作をやっていて、僕は映像制作をやっていた。だから、VISUAL AND ECHOという冠が付いたという。でも、ハンコ屋に社判を作りに行ったら、お店の人に“JAPAN”を付けたほうが商売繁盛すると言われて、それでVISUAL AND ECHO JAPANになりました(笑)」
屋号にJAPANと名乗る以上はいつか地元の北海道十勝郡にも拠点を作りたい。VEJを立ち上げる以前から朧げに思い描いていた青写真はまだ実現できていませんが、設立16年目に甲府、17年目に京丹後という形で社員と縁のある土地に拠点を作り、今では青山を含めて3つの拠点を構えるほどに。極めて個人的な想いは少しずつ会社のビジョンと重なっていきました。
「20代前半の頃、僕は大手建設株式会社を辞めてCG制作を始めたんですね。その理由は、いつか北海道に帰った時に、手に職を持っていた方がいいと考えたんです。技術があれば場所を問わずに働けるから。ところが、当時はITのインフラが整っていなくて、しばらくは無理だと諦めました。やっと機が熟したのは15周年を迎えるタイミング。現・甲府オフィスの宮沢が“山梨に移住して甲府オフィスを作りたい”と明かしてくれて、今の時代ならば通信手段が格段に発達しているし、やっと実現できるんじゃないかなって」
もともとVEJはファッションや音楽など、何かのジャンルに特化したプロダクションではありません。ある意味でスペシャリストではない私たちは、依頼された案件をひたすら打ち返してきました。会社を維持・発展させるためにクライアントワークを着実にこなしていくことは必要不可欠。しかし、池田はそれだけではダメだと、VEJの個性とは何なのかを問い続けています。
「代表として“スタッフ全員が笑顔で働ける会社でありたい”と本気で願っているし、その一例として2拠点のリモートワークを実現できたけど、みんなが最高だと言える環境にはなっていない。それを実現する方法を追求していかないと」
5年後、10年後のVEJの糸口が見えてきたのは、映画『シン・ゴジラ』を観ていたときのこと。劇中の描写にそのヒントを得たといいます。
「いわゆる縦割り行政を否定するような描写があるんですよ。各行政の人たちがひとつのフロアに集まると、物事が迅速に動くというシーンが散りばめられていて。何かのプロジェクトメンバーがある場所に集合して、集中的に制作を行うということが今後起こるんじゃないかなと思いました。そこからリモートワークが次のフェーズに進めるだろうし、地域の観光にも影響をもたらすかもしれないでしょう。みんながリモートワークをする必要はないけど、人が行き来することは血の循環と同じだと思うから、血流を良くする意識で新たな場を作ることに挑戦していきたいですね」